マチオモイ帖 No2 生野・桃谷 疎開道路(職業編 復刻版)

1970年代の記憶

大阪市のメビック主催のマチオモイ帖イベントに参加した「生野・桃谷 疎開道路 part2」をアーカイブとしてアップしました。

デザイナーがデザイン的なものを出展しても面白くないなぁ~
ということでエッセイにしました。
全部で3冊+十八禁など2冊ありますので、徐々にアップします。

主に1970年代の記憶で、冊子になったものを一部抜粋して、テキスト化しています。
※ 挿絵は当時小学4年生だった娘が描いています。

生野区桃谷の「疎開道路」周辺ですが、みゆき通りのコリアンタウンや鶴橋駅周辺は、昔と変わらず賑やかです。

疎開道路を南へ下った勝山地域は、高齢者の多い静かな町になっています。

いずれも、当時と比べて、街並みだけはあまり変わっていません。

時の流れとともに、もう見かけなくなり、復活する事も無い、当時の職業や商売人を「職業編」としてまとめてみました。

文中に出てくる「工場」は「こうば」です。「こうじょう」ほど大掛かりでなく、「作業場」よりやや大きいものづくり場を、みんな「こうば」と言っていました。

大阪弁の文章ですから、他の地域の方にはわかりにくい表現もあると思いますが、どうぞご容赦ください。

 

嗚呼!阪神タイガース

近所に記章(きしょう)・バッチを製造している職人さんがいました。 七宝焼を使った高級品から社章、校章…色々と製造していました。

昭和48年 阪神タイガースは、江夏豊を中心に優勝街道をひた走っていました。
当時のタイガースと言えば、お家騒動ばかりが目立ち、成績はパッとしない。

ファンのストレスもピークになっていた。そんな状況での滅多に無いチャンス。
気の早いファンは、もう勝った気になっている。そんな空気が流れていました。

そして、ここの記章工場に「阪神タイガース優勝記念メダル」の発注がありました。
元々、熱狂的な阪神ファンだった大将。

「光栄な事や」と言って嬉々として、引き受けました。

朝に会えば「阪神勝ったな」「アカンがな」初対面でも誰彼なしに、タイガースファン恒例の挨拶です。

巨人ファンに向けては
巨人なんか、子供や、野球知らんアホが応援するチームや」。

工場前を通ると、かなりの音声で阪神の実況ラジオがいつも聞こえてくる。
典型的な「虎キチ」。

しかし優勝となると、Xデーに併せて、早めの製作と、かなりの数量が必要になる。
「カンつけ」やシール貼り…近所の人たちも優勝を念じて、内職で手伝った。

ところが、肝心の阪神タイガース
残り試合が少なくなるにつれ、雲行きが怪しくなってきた。

有名な池田選手の落球~残り2試合で1勝ができない。

「祝!優勝記念メダル」は出来上がっている。
次第に大将の顔色も悪くなってきた。

ついに優勝は、巨人との最終戦にもつれ込んでしまった。
中学生でしたが、この日はみんなラジオとイアホンを持って、学校でデーゲームの実況を聞いていた。

結果は早々と上田次郎投手が打ちこまれ9対0の完敗。
ジャイアンツの高橋一美に完封を許し、本拠地 甲子園で巨人にV9を献上しました。

試合終了と同時に、ラッキーゾーンを乗り越えた客が、タイガースの余りにふがいない試合ぶりに激昂して、一斉にグランドになだれ込む、世界の王選手にまで暴力をふるうという汚点まで残しました。

後味の悪さは球場だけではありません。
問いかけても返事が無く、非情なドンデン返しで、茫然と佇む大将に近所の人が、
「コレ、どうすんの?」と聞いた。

いくらかは発注元が持つでしょうけど…
処分もしないといけないし、内職費も払わないといけない…。

駐車場に山積みになった段ボール箱の前で、寡黙な大将が叫んだ

「くそっ!タイガースは殺生や、
バクチよりタチが悪い。

もう辞めた。辞めた。
アホんだらぁ~!」

…次のシーズン早々、大将の工場前を通ると…
「アレッ?」何事もなかったように、ラジオからは阪神の試合実況が聞こえる。

中を覗くと縦ジマの帽子をかぶり、黙々と仕事をする大将の姿が?。

惚れたが因果
虎キチは花も嵐も踏み越えて…

幻の優勝からさらに12年後、ついに21年ぶりの優勝を果たした時の記念メダル。
大将の工場で作られました
「大将良かったでんなぁ」皆で喜びました。

※ 七宝焼(しっぽうやき): 伝統工芸の金属技法。
※カンつけ:メダルと鎖をペンチで繋ぐ工程。

 

ピタッと当てます貴方のサイズ(婦人服専科)

若旦那。両親と一緒に経営しています。

店員さんがいないと、稀に本人が店番をしている。
スカートを体に当ててる客が
「すいません。ウエストちょっと、
どうかなぁ?」

女性をジロッと見るなり
「小さいんちゃいます。それ9号ですよ。」

そして余計な一言も

「ウエスト出したら、
入らん事はないと思うけど、
奥さん、12号ぐらいあるでしょう?
生地が足らんと思うわ」

何の気遣いも無く、乙女心?を逆なでしよる。

今度は、背の低い太った女性が入って来た。
熱心にコートを見ている。

グリーンのコートを指さし
「ちょっと派手かネ?」

「派手には見えませんよ」
「着てもいい?」「どうぞ」

…おおっ!珍しくちゃんと接客してるやん。
客が前を向いて鏡で見る「ピッタリかなぁ」。
後ろを見て、顔をヒョコっと若旦那に向けて
「どう ?」

「う~ん。
何かミドリガメ

みたいですなぁ~」

「×△××△….」。

そこへ店主のお母さんが帰って来る。
「うっ!」店に出ている息子を見て顔が曇る。

「ああ、いらっしゃいませ」客も大阪のオバサマです。
にが笑いで「ホンマ何やのん、失礼なあの男」

「すんませんねぇ。
自分の嫁がぶっさいくやから、
綺麗な人を見るとすぐ嫉妬しますねん。

奥さんお綺麗やから。
フォッフォッフォッ(笑)」

どんなフォローや。

若旦那、本職はレディス仕立てをやっている。
「女性の体形を見ただけで服がつくれる」と豪語していて、コチラの腕は確からしいが、
アチラの腕はサッパリ、現在も独身。
そらなぁ。これじゃーなぁー。

だいぶ経って、商店街のイベント「日韓フェア」というのがあり、ついでに北朝鮮も含めて、地域的に「朝鮮半島フェア」でどうや?
補助金出すで? との行政提案に

「日本人を拉致してる国を、
何で応援せなアカンの!」

と一蹴しよった。ええとこあるんやけどネ。

 

禁断の金閣寺

当時の大阪市生野区は、今の中国のように「光化学スモッグ」がよく発生していた。
発生すると注意報、警報とレベルが上がります。

校庭に赤い旗が立つと学校で遊べなくなり、帰っても外出を控えるようにと連絡が入った。

そんなもん子供には関係ないのですが、やっぱり近所では遊ばれへん。
そこで、退屈な子どもは、自然の少ない大阪を離れて、虫や爬虫類を求めて、あっちこっち行きました。

中学生になりたての頃、昭和町近くの桃が池で、大量にザリガニを捕ってきたので、家の前にタライを置いて、友だちや興味のある通行人に配っていた。

そこに金魚屋のオヤジが、たまたま通りかかり
「今度、虫やザリガニなど捕ってきたら、ワシところで販売してあげるで」と言った。

別に興味もなかったけど、友だちの「コセン」(当時TVで人気だった大橋巨泉さんをそのまま子供にしたような風貌+趣味の古銭集めから付いたあだ名)が妙に熱心で売ってもらう事になった。

「コセン」はあだ名の通り古銭や切手を集めていて、いつも「これはナンボで、これは高い」とか、子どものくせにお金に執着心が強い

金魚屋オヤジに詳しく聞くと、特に「イモリ」
「タガメ」はそこそこの値段で引き取るよ。
それを聞いた古銭。えらい色めきたちました。

「どこに行ったらおるんやろ?」
図書館の辞典で調べたがわからん。
結果、金魚屋に聞いたらええんや?
と言う事になり、皆で聞いた。

「タガメは水田におるんやけど、農薬の無い所でないとアカンからなぁ。今は、相当減ってるで」

「どこ?」
「わかっとったらワシが行くがな」
「イモリは水のきれいな谷川」

「そうや、前に持ち込んだヤツが、金閣寺で見つけたと言うてたわ」
「よし、まずは金閣寺や!」
「どこや?京都や!」子供は行動が早い。

網と砂糖の一斗缶(いっとかん)を改良した生き物いれを持って5人で出かけた。

京阪三条までは京阪電車でたどり着いたが、金閣寺がどこにあるのかよくわからん。

何度も人に道を聞きながら、昼を大きく回った頃に、ようやくたどり着いた。

「入館料がいるやん」「はぁー疲れた」とか言いながら、金閣寺の池の周りをウロウロ探しましたが「イモリ」なるものは見当たらない。

だいぶ探してあきらめかけた頃、突然、名人と呼ばれていた友だちが、水の湧いている所を指さして
「アア~、アア~」と言いよった。

そこには、一見おたまじゃくしのようで、水面と池の中を往復しているお腹の赤い生き物が。

「見つけた!イモリやん」かなりの数がいるが、ちょっと池に入らんと網が届かない。

「しかし、池に入るのはアカンやろ?」

ここは、子供でもわかる禁断の雰囲気がある。

少し向こうでは金閣寺を背景に、外人が写真撮影をしている。

「あっ!」とにかくお金にしたいコセンは、
ズボンをたくし上げて池に入っていきよった。

「こら、もうしゃーない」
何度か網ですくって、さっさと逃げよ。

それから、ほんの数分後、
「アカン!」見張り役が鋭く言いよった。

入口の付近からザワザワと人の動きが…

何とか団体客に紛れて、かなりの大回りして
何とか外に出ると、すでにコセンと名人が待っていた。

「こいつらプロかっ。素早い」

大阪へ帰り、金魚屋に持って行くと
「おおっ!大手柄やん。
由緒ある 値打ちもんや。

なんせ 国宝やからな!」

何故か褒められ、小さめで残った2匹を自分で飼った。

近所にあった井戸で朝夕に水をかえ、餌は赤子(いとみみず)
2年ぐらい生きていた。

タガメは枚岡の溜池で見つけたが、亀と一緒の水槽に入れたら食われちゃった。

亀は四天王寺の亀池で捕りました。
孵化してまもない銭亀は、池の真ん中にある砂場にいて、池の淵からジャンプして飛び移りました。

でも、帰りは淵の方が高くて戻れない。
「飛んだら確実に亀池にはまる!」

立ち往生し坊さんに見つかって、エライ怒られましたが
やはり仏に仕える身、掃除用の板を渡して救ってくれました。

夏の日暮れ、鶴橋駅から近鉄奈良線の普通電車に乗って、枚岡、額田、石切、生駒、富雄まで順番に降りて、駅の電灯に群がるカブトムシやクワガタ虫を捕りに行った。

間違えてクマンバチに刺されて、手がグローブのように腫れた事もありました。

その頃は、虫だけでなく、家でいろんな生き物を飼っていた。

セキセイインコに鳩。
鳩が舞う四天王寺が近いので、エサを求めて、恐ろしい勢いで増えて行きました。

結局、近所から苦情が出て、やめさせられました。

 

鳴かない鈴虫

最初は、どっかから10匹程度捕ってきたのですが、どんどん増えて、3年目ぐらいになると、水槽2ケース一杯になりました。

秋ごとに涼しい音色を聞かせてもらっていました。

5年目ぐらいから余り鳴かなくなり、
7年目には全く鳴かなくなりました。

鳴かないなら見た目、
便所虫と変わらんやん!

鈴虫が羽を擦り合わせて音を出すのは、メスに対する求愛です。

狭い水槽の中はメスも多い。あえて鳴かなくても隣にメスが居る。
そんな事情でしょうかね。

人も虫も同じですかね?
トウが立った男女の姿。

 

金隠し

もう廃園しましたが、宝塚ファミリーランドの池に、大きなオタマジャクシが沢山いた。

50匹ぐらい?家へ持って帰り、鰻や亀と一緒にブロックで作った池に入れてました。

そのうちの大半は酸素不足で死にましたが、2匹だけが立派な牛ガエルに成長した。

ある日、大雨が降った翌日に池を見ると
「いつかは、かば焼きに」と、楽しみにしていた鰻とともに姿が消えていた。

「あーあ残念。きっと下水で幸せに暮らしているんやろ、まあしゃないなぁ」と思ってました。

数か月経って、法事か何かで、家に何人か親戚が来ているときに

「ギャーヒー!」

断末魔みたいな悲鳴が聞こえ、見に行くと、
空いたトイレの扉からおばさんが、はみ出て白目をむいていた。
発作か何か、体の異変が起こったと、皆が心配して助け起こしました。

「うん?」おばさんの正面、和式便器に目をやると…

「おおっ!」里がえりの牛ガエルが、目をパチパチ。

金隠しの上にチョコンと座っていました。

 

禁じられた遊び

虫の好きな友だちがいました。

最初は、カブト虫などの甲虫をカゴや水槽で飼っていました。
さらにバッタ、セミまでを採集するようになり、どんどんエスカレートして、それらの虫を自分の部屋で放し飼いにするようになった。

彼らの父は音楽家で、スペインでナルシソ・イエペス氏についてギターを学んで帰国した。
そんな縁で、イエペス氏が来日して彼らの家に来ました。

著名な音楽家が来るという事で、
近所の子供達や、父兄も彼らの家に行き、
イエペス氏と卓球をしたりホームパーティのような感じだった。

そんな中、遊びに来ていた誰かが、知らずに禁断の昆虫部屋のふすまを開けよった。

「うわっ―」という驚いた声とともに、バッタやコオロギが出てきました。

慌てて虫を追いかけたが、その中に大きなクモもいた。

市内の子でクモをつかめる子は少ない。

半分ふざけてバタバタしながら「お前行け」とかやっているうちに、
誰かが焦ってクモを蹴りよった。

一瞬です。

「バッ!」
ゴマを散らしたように一斉に子グモが散らばった。

「ヒェー」もはや、バッタどころではない。

「何やってんの、あんたら」大騒ぎになりました。

今度は「せっかく楽しみにしていた花火が雨で出来ない」という理由で、それなら家で花火をしようと、部屋の中でロケット花火に点火しました。

これは恐怖ですよ!火が消えるまで、狭い部屋の中を花火が暴れまわります。

やっぱり芸術家って変わっていますわ。

 

【懐かしい商売もいろいろありました】

わらびもち

屋台を引いて、町の決まった場所に、小柄なおばあさんが定期的にやってきました。

客寄せの拍子木を叩く音が「チョン♪チョン♪」というので、子供達は「チョンチョンのおばちゃん」と呼んでました。


夏はわらび餅、冬はおでん。

今「おでん」と呼ばれているのは、
関東煮(かんとだき)。

おでんは、串に刺さったコンニャクや、イモを味噌で食べるもの。

辛子味噌で食べる餅もあって、美味しかったなぁ。

 

折り紙細工

近所に流行っていたそろばん塾がありました。

ちょうど塾が終わる頃、前の道路に椅子を置いて、おっちゃんは現れます。

材料は、折り込みのチラシや新聞紙。

器用に折り込んで、尻尾を引っ張ると首が動く馬や鶴、紙風船などを作り、集まってくる子供達に配ります。

ひとついくら?などの価格表示も無く
「金くれ!」とも言いません。

手持ちがある子は5円、10円と持っている小銭を渡していました。

おっちゃんは聴覚障害者(当時は聾唖者)で耳が聞こえず、言葉も話せない。

身振り手振りを交えた折り紙の実演を定期的に見ていると、子供達も自然に、おっちゃんの意思が理解できるようになり、

「手話」というものを知りました。

 

ゴム銃

男子はだいたい銃や乗り物が好きです。

この人も商店街の外れに定期的に現れ、
実演しながら針金で出来た手製のゴム銃を子供相手に売っていました。

原理は輪ゴムを指にはめて撃つのと同じです。

色んな種類があり、同時に2発撃てるもの、連射式など。

子供の人気遊びは「撃ち合い」です。

そんなリクエストに応えて行くうちに、だんだん破壊力も増して行き、
梱包用の太い輪ゴムを弾にした進化系が現れました。

これは強力です。

段ボールに穴が開き、発泡スチロールが粉々になる。
「人に撃つことは無かったけど、かなり危ない代物」

学校に発覚してゴム銃禁止になってしまいました。

 

紙芝居

公園に来ていた「紙芝居のおじいさん」

この人、喉に穴があいていて、普段は白いガーゼで喉を覆っている。

紙芝居をする時は、そこへビニール管を入れて声を出していました。

「ゴロゴロゴロ」うがいをしているような音と共に、物語をしゃべっていました。

落語家のような話し方と、唯一無二の味ある声だったなぁ。

この方、割と有名だったので、同年代で市内東側の方は、知ってる人も居ると思います。

 

あたりや

悲しい銭儲けですわ。

生野区を南北に縦断する「疎開道路」は、起伏があり歩道が無く、大きく曲がっているため、車はスピードを余り出せません。

そんな条件下、貧しさの残る当時の世相を反映して「あたりや」が横行していました。

「あたりや」は、だいたい車が動きだしてすぐか、止まる寸前に車の前に飛び出てきます。

その頃の車は、バックミラーがボンネット上に付いていたので、タイミングがずれるとミラーに引っかかって大けがをします。

大抵は小遣い稼ぎで、数千円ぐらいを要求してその場で示談です。

それを知る近隣の人は「疎開道路」を余り車で走らなかった。

だからいつも交通量は少なかった。

 

泣き女

コリアンの職業で「泣き女」というのがあります。

近所の葬式時に、3人ぐらいチョゴリを着たお婆さんが来て、身振り手振りも交えて

「アイゴー~アイゴー」と大声で泣いて、故人を送りだします。

そういう職業があるのは知らなかった。

「おじいちゃんの葬式にしては、えらい大げさな悲しみ方やな」と思いました。

ひと仕事が終わった後、今度は大声で笑いながらタバコを吹かしている。
そのギャップにビックリしました。

従軍慰安婦の争議があった時にTVに映る自称慰安婦とその家族を見た時

「この人ら、泣き女やん!」と思った。

 

自称 傷痍軍人

当時、四天王寺の お大師さんや祭り等に行くと、義足や義手と、白装束に脚立姿で軍帽をかぶった元日本兵?姿で、

「♬タータタタタ タァータタ タタタ タァータタ♬」

アコーディオンやハーモニカを演奏しながら、
前に箱を置いて、参拝者から金銭をもらっていた。

傷痍軍人とは、戦争で体の一部に傷を負い、
その後、仕事につけなかった方々で国が認定して恩給が出ていました。

ある日、四天王寺で傷痍軍人3人がアコーディオンを演奏していた。

弟たちを戦争で亡くしている祖母が、いつものように手持ちの小銭を箱に入れていました。

帰り際に天王寺駅近くのうどん屋にいると、さっきの傷痍軍人たちが入って来て、
注文した天ぷらうどんが運ばれて来た。

そして、ひとりがおもむろに義手を外すと、
「そんなアホな!」

そこには普通の手が?

もうひとりは吊っていた腕を抜き、
割り箸を器用に割って食べはじめた。

腹がたちますわ。こっちは素うどんなのに。

※四天王寺: 弘法大師の月命日、毎月21日は俗に「お大師さん」と呼ばれ、境内に露店が並び、たくさんの参詣者で賑わう。

 

たのもし講

近所の商店主等が胴元となって、商売人や職人からお金を集め、必要な時に貸すという、一種のねずみ講です。

「たのもしですぅ~」

おばちゃんが大福帳のような物を持ち、定期的に集金に来ます

「現金が一番」保険や銀行に頼れない人たちが、かなり多く加入していました。

 

でんでらりゅう

疎開道路を南に、勝山通を渡ってしばらく行くと、パーク劇場という映画館があり、その前あたりに「屋台のおっちゃん」の店がありました。

「でんでらりゅう」という、不思議な唄のレコードも出していて、フォーク歌手兼占い師として、ラジオ等にも出演していました。

※この曲、定期的にリバイバルしますね。

 

鶴橋国際商店街周辺

高校生の頃、ここを中心に様々なバイトをしました。

最近、「町や人は、昔の方が良かった」と良く聞きますが、
果たしてそうやろか?とも思います。

JR環状線では、後ろの車両で平然とタバコを吸って床に投げ捨てる。
街角やパチンコ店も然り。

痰つぼもその辺にあり、オッサンが
「カーッ ペッ!」

この商店街辺りは、朝は早いが夜間は迷路状で、ほぼ真っ暗。
大声での夫婦喧嘩は日常茶飯事。

多くの職業が入り乱れ、みんな必死で働いていた。
そんな当時のスケッチです。

 

パンツ屋

女性のパンツを安売り販売するデブオヤジの店。

このオヤジ、カエルがカツラを被ったような風体ながら、店はいつも人だかりが出来ていた。

正月の福袋争奪戦のように、パンツに群がる綺麗なお姉さんたちにカルチャーショックを受けました。

香具師のような口上のあとに、集まった客に対して商品を販売する。

決めゼリフは、腹の底から響くダミ声で
「ウチのパンツは違うでぇ~。」

「ピシッと決まって
食い込まない!」

※香具師(やし):フーテンの寅さんの職業。夜店や祭りで口上をしながら物品販売をする人。

 

玉造日通

高校生の夏休みは、JR玉造駅の下にあった「日通」で、引っ越し手伝いのバイトをしていました。

トラックの運転手とペアで荷物を運ぶのですが、当時は運搬道具が少なく、何でも人力で運んでいて、特に布団や冷蔵庫が大変だった。

綿の布団はともかく重い。布団袋に入れて何往復もすると、屈強な大人でもかなり疲れます。

町工場、特にネジや金物は20センチ角の箱でもひとりで持ち上がらない。

小さな箱を二人がかりで持っている時など、オッサンと顔が近づきすぎて、
「コラ、気持ち悪いゾ!」

重いので 息が上がる。

「ハアハア、顔の前で言わんといてくださいヨ。」

などと言い合い、笑っていた。

でもね、当時はバイト料の他に、引っ越し先から心付けが貰えて、お昼に寿司を出してくれる事も多かった。

特に住人が中年以上の方だと、その確立がアップしました。

今の引っ越し屋さんは、ちょっとかわいそうかも。

 

バッタ売り!

日通で知り合った友だちと二人で、年の瀬に鶴橋駅近くの露店で「荒巻鮭」を売りました。

店主は何か所を掛け持ちしているようでしたが、
見るからにこれはちょっとアカンという人物でした。

私と友だちに
「エエか、何時になっても全部売らんと帰せへんど」
といきなり凄みました。

「うん、何やこのオッサン!」そこは抑えて、
まずは銭儲け…銭儲け。

二人とも必死になって、大声で呼び込んだが、全然売れへん。

店主が「何としてでも、全部売れよ」と言って他の場所へ巡回に行ったので、
何で売れへんのかを、誰かに聞いた方がエエな?と言う事になった。

知り合いが通りかかったので
「おばちゃん、全然売れへんから買って!」

「三千円!って、アホか。あんたとこ高い!」言われた。

次のおっさんには、一歩踏み込んで
「なんぼやったら買う?」

「千五百円~まだ高いか。こんなんバッタ売りやろ」
魚屋でも無いハッキリせん店なら、千円がエエとこちゃうか?」

「オオッ!これやったんや。値段が高かったんや」

おつりも面倒なので、単純に千円にしたろ。

売れました。次から次にお買い上げです。

現金入れている段ボールが、千円札で一杯になった。

店主が帰ってくるなり、鮭がほぼ無くなっている。

「おおっ!すごいやんけ~。やるな」満面の笑みです。

「何か飲みたいもの言え」などと言いながら、
段ボールのお金をまとめて、勘定をしはじめました。

「アレッ?だいぶん少なくないか?」
「つり銭、まちごうてないか?」

「うゎっ、そんなどころやあらへんがな」
「コラッ 何でや!」

「1本 千円で売ったよ」

「エエッ!」絶句しよった。

店主は焦りだして「誰と誰が買いよった!」
「どこ行きよった!」意味不明にかなり狼狽していました。

私と友だちは黙秘「…」。

少し怒りが収まったので、バイト料を貰って帰ろうと思い
「もうする事が無いのでバイト料ちょうだい?」と言いました。

「アホかっ!お前ら!」

えべっさん、いや、 我孫子さんでも、汗流してもらうで!」
と凄んだ後に、ため息をつき

「まあ、売れ残らんかったから、おまえらの大好きな千円だけあげるわ、ケッ!」とくれよった。

「やっぱり、俺らには物売りは向いてないなぁ~」と二人で笑いながら帰りました。

もちろん、えべっさんも我孫子さんも行ってません。

※我孫子さん:住吉区のあびこ観音。当時の商売人や職人は、初詣~清荒神~今宮戎~あびこ観音と、新年はお参りしていた。

 

コーラ売り

「コーラいかがですか?コカコーラに
ファンタオレンジいかがですか?」

「ビールに~するめェ~♪」

アナウンスしながら、客席を回るバイトです。

最初は、森の宮の中央大通り沿いにあった日生球場です。

近鉄バッファローズの本拠地でしたが、いつもガラガラで客が少ないため、歩合性のバイト料は微々たるものでした。

まあ、ただでプロ野球を見られるし、それよりオッサンのヤジが辛辣で、とにかく面白い。

近鉄vs南海、両方とも弱いし、試合がしょぼい。

当時、監督兼任だった野村克也さんが代打で登場すると、
近鉄ファンからも喝采ですわ。

その後にカコーン!ヒット打たれた。

「コラ野村ぁ♬~真剣に野球してどうすんねぇん」

「バットはベットでふれよぉ♬」品 ないですわ。

そのうちバイト仲間から声がかかり、甲子園でも売り子をしました。

阪神vs.巨人となると、人もいっぱい。
ニッセイ球場とはえらい違いですわ。

最初に行った時に、通路を抜けてバックネット裏からスタンドを見上げた時、その人の多さに圧倒されて「コーラいかがですか」が発声できなかった。

「コーラいかが…」声が萎んでいきました。

売り上げアップには、余り歩き回らずに、派手なおねーちゃん達を連れて来ているおっさんグループの近くに陣取って、野球を見ながら声がかかるのを待つ。

タイガースが勝っていると上機嫌。大負けでも

「見てられるかい!」
と、
ヤケ酒を次々注文してくれる。

これが一番カタイ。

ウロウロすると、試合に興奮した酔客に
「見えへんゾ―、どけ」とか言われてトラブルになるしね。

 

ハゲのやっさん

文具屋の店主がユニークで、商魂がすごかった。

顔や雰囲気が横山やすしに似ていてスキンヘッド。

それで、近所の人や親しい客には
「ハゲのやっさん」
と言われていた。

メーカーの展示会と聞けば、店員、バイトだけでなく家族総出です。

そして「コレ」という景品や粗品が有れば、
ローテーションを組んで、何回も貰うために巡回します。

「キミ、その角から回って、此処とココ…の順番。
エエかっ、全員あのデスクマットは必須やで」
という調子。

また、抽選が有る場合は
「君の誕生日は?」

「はぁっ?」

「オオッ、六白金星か。今日はアカン!」
瞬時に占い師にかわります。

必ずその日の運勢の良い人が、抽選をしていました。
そして、客寄せのお勧め特価として店で売ります。

「エエか!安く仕入れて、高く売る」

「小さく高価なモノは、場所をとらずに金が儲かる」
よく言っていました。

当時は在日一世、二世の時代。

鶴橋周辺はそういう方々が多い。

電話が鳴る。
「はいっ○○です」と店の名前を言った後に、突然しゃべり方が変わります。

「アッ チョデスカ ボルペン ヒトケスネ」
(そうですか。ボールペンひとケースですね)

電話先の話し方で在日だと判断すると、同胞をアピールするため、声態模写をします。
反面、買わない客はバッサリ!

「タメタメ、サワルナ、アッチイケ!」

彼らに同胞だと思ってもらうと、商売がしやすい。

特にコリアン達が冠婚葬祭で使う「焼き紙」は、油紙のような嗜好品ですが、中ぐらいの段ボールひと箱で数万円する。

店主を同胞だと信じ安心して、言い値で売っていました。

当時の鶴橋は「石を投げれば極道に当たる」と言われたぐらい
「頭にヤが付く自由業」の方が多い。

連絡手段も乏しい時代です。

電柱に「○○組の皆さん。本日は中止です」
そんな張り紙などもあったらしい。

組事務所もわかりやすい。
前の道には綺麗に打水がしてあり、
中に入ったら「あれ、今日は祭りか」と思うぐらい提灯が吊ってある。

中には、大きな組があり、豪華な扉を開けると、
まるで宮殿のような吹き抜けに、3m以上あるブロンズの騎士像が鎮座していて、びっくりしました。

当然、その方面のアイテムも充実していました。

立派な名刺の印刷や「破門状」「絶縁状」…
各種儀式の小物まで…箔押し代紋
が定番です。

彼らには、余計なセールストークは必要ない。

「あちらさんより、
エエもん出来ましたで!」

 

潔癖症

文具屋の客に○○組があって、ここの組長は超が付く潔癖症らしい。

そして、とにかく新品が大好き。

ボールペンのインクがちょっと減って、
中の管に薄いグレーと黒、色の差が出来たらもう使わない。

やっさんに言われた通り、いつも「引き取り分ありますか?」と聞いて、
よく見ないと、新品と判別できないボールペンをまとめて持って帰りました。

それらは特価品として普通に店で売ります。

時に驚いたのは、まだホワイトボードの普及していない時代です。
何故か黒板の注文を、ほぼひと月ごとにする事です。

黒板のチョークの跡は、しばらく使うと中々消えなくなります。
本人はそれが気にいらない。

機嫌が悪くなるのを避けて「そろそろかな」という前に、組から発注がありました。

現金で払うし単価の安い文具関連の商品群では、かなり高価!
店にしてみれば良い客ですわ。

ある日の配達時、その黒板を前に年配の組員?が若手を前に朝礼のような事をしていた。

ひとりの若者が怒られていて、
「ハイッ!」
「わかってるんか?」

「ハイッ!」
「ハイッ!ハイッ!って、お前は 馬追いか!」
そしておもむろに

「エエか
人のふんどしで顔をふく
ようなマネをしたらあかんど!」

「意味わかるか?」

「エッ?ハイッ! 小声で…相撲を取るでは…」

「何!ぶつぶつと何や!」
「ハイッ!」

「ぐふっ…」

葬式とかも同じだけど、緊張の中で笑いの壺に入ると、収拾がつかなくなり、思い切りせき込みながら逃げました。

ある配達日、事務所の新しい黒板に書かれた、
几帳面な言葉。

「朝は掃除と挨拶」「物は大事に…
「出前は勝手にとるな」…等

最後に今月の訓示とあり、丁寧に上から2度書きの太い文字でしつこく

「人のふんどしで顔をふく
ようなまねはしない」

そんなやつ誰もおらんやろ。
間違いの指摘も出来ない世界なんやなぁ

 

人に歴史あり…

バイトも終わる頃、焼肉「鶴一」で送別会をしてもらいました。

だいぶビールも回ってきて、居眠りのはじまったやっさんの傍らにいた
酔いの回った奥さんが話し出した。

「ウチの店、大変やったやろ。
けったいな客や、ややこしい業界にまで手をだして」

「ウチの人もえげつない人間やと思ったんちゃう?」

「そんなこと全然ないですよ…短期間やのに、送別会までしてもろて」

「実はね2年前に店から火が出てね。
店がまる焼けになってん。
しかも自分の店だけでなく、両隣やら周辺にも迷惑をかけてしまって」

「それまで主人は、二代目のボンやったんやけど、
その時に髪の毛も一気に抜けて… 」

「とにかく、皆さんに納得いくように、その弁済を早くせなアカンと言って、
必死に働くしかないと、今のようなやり方になったんよ」

こんな話は苦手です。どう返答して良いかわからず、トンチンカンな返しをしてしまった。

「へーほんで、
人間は誰も丸こげにならんかったんすか?」

ふと、前で寝ているやっさんの顔を見たら、鼻の穴が膨らんでいる。

こらえきれずか「パッ」っと目が開いて

「丸こげは髪の毛だけ。人間はみんな無事。
ワシもそれが救いやった。キミ出世するわ ハハハ」

(いまだに出世とは無縁ですが、ハハハ。)
奥さんもお母さんも、他のバイトも笑っていました。

バイトが終わってしばたらくして、店主から電話がありました。

「キミ、ロッカーにセーター忘れているで!」
「すんません。また、取りに行きます」

「早よ来ないと、店で売るで! ワァーハハハ」
あれから40年近く、とうとう行かなかったなぁ。

 

▼文字の大きさや表現にちょっと工夫した
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PDF版 生野・桃谷 疎開道路 part2